インターネッターに告ぐ
漢方おねおね放送局といインターネットラジオをしています。それはまあほんとおねおね。
おねおねというのは、多分上方落語で使われてるいる言葉だろう。そう頻繁ではないが。おねおねとは、まあ、おねおねなのです。決しててきぱきではないそれ、それがおねおね。
その漢方おねおね放送局にて、森友学園、籠池さんのことをしゃべってきた。
ま、そういうことだ。
梯子を外された。まさに、梯子を外されただ。籠池さんは愚か者です。園児に教育勅語を言わせていいわけがありません。これは問題です。そう、問題だ。
だけど、それが世に出なければ、愚か者足り得ない。愚か者が愚かに気付いた時、愚か者は物語になる。
小学校開設から多額の借金。じゃあ、認可しないでよ。そこで気づく。あ、梯子を外されたのだと。
愚か者を自覚できる愚か者はさしていない。だって嫌じゃないか、自分の過去を否定するのって。
あんなに絵になる愚か者がいて、なぜ、人は茶化さないのか。揶揄はする。人は揶揄するが、そこまで鑑みない。愚か者を鑑みたとき、立ち上がる何かは確実にある。
あるのだよ。
多分、ライターとかインタビュアーと称する人はそういう能力に長けているのだろう、と思う。自分には直接的にそこまで影響がない。あれは、特別な何者かだとするのではなく、ただただ、その事柄、人物に興味が出てくるのだと思う。
興味。
ここからは滅茶滅茶乱暴。決め打ち邪推の羅列。コンピュータに長けている者、ことインターネットに長けている者達の権威的なことについて。
私が芝居の台本を書くことがあると、ポロっと言う、で、ポロっとの相手がインターネットに長けた者だったことがある。で、どういうわけか、そういう人は私に論戦を仕掛けてきて、なんならその人は自分で文書を書いてたりして、そういう人はわりと挑発的だ。
喰えないコント師、芝居の台本も書く。挑発するならおあつらえ向きだ。気持ちはわかる。
そういう人と喋ると、ううううん、なんなんだそれは、となる。
インターネットに長け、インターネットで表現してる者ほど権威的だ。乱暴ですが、乱暴ですね。決め打ち。
自分が今発露したい者、興味ではなく、自分がどう見られるかを気にする。
インターネットの魅力はどっかオカルト的にものを内包するからだと思っていた。奇人の受け入れ場所。火星人に拉致されたと主張する方も受け入れれるようななにか。
けど、違った。すくなくとも、違った。インターネットが普及して、10年から15年。そこは、批判の民が跋扈する場となり、フェイスブックでは、自分の幸福発表会となった。
幸福発表会は悪くない。私も自意識が邪魔しなけりゃ、こどもの写真をあげたい。
だけどだ、だけど、自称であれ、表現者なら、批判して高見にたつな。ほんでから妥当なことばかりいうな、ほんでもうちと興味をもて。一見無関係ない^_^やうで、それは4.5年後必ずお前に関係してくる。だからさ、原発再稼働も証人喚問での籠池氏の手のあげ方も
通勤電車で一緒になるおじいさんも、うっとおしい親戚も、同じ職場の3日で辞めたあのおじさんも、なんかわからんが、表現てのは興味を持てるかどうかいうことやないやろか、と挑発してきた人に言うたならば、、、
二束三文のコント師に言われてもひびかんねえ、見たいに言われた。
これだから、インターネットに長けた者は権威的だって言うんだよ、と二束三文のコント師は思うのだ。
漢方おねおね放送局というインターネットラヂオしてます
漢方おねおね放送局というインターネットラヂオをしています。今の所、毎週更新しています。よければ、聴いてください。
三木亮という同じ歳の男とインタネットラヂオをしています。よければ聴いてください。
で、インターネットについて。
これを書くと長くなる。実に長くはりそうだ。インターネットについてとプロレスについて、主張したいことはわりとある。主張したらどうなるのか、というと、別段少しすっとするだけだ。しかし、まあ、その、手の届く範囲で少しすっとする手段を把握している、そない迷惑をかけることなもなく、そない自分を貶めることもない範囲で少しすっとすることを知っている、それは、いいことだ。
だって、そでしょ。それがなかなか難しいのだ。「一回言うたら理解しろ」と言うてくる上司はわりといて、そういう方には「一回で理解できるような言い方をしろ」と言いたいところで、きっと言えばわりとすっとするが、その先にはクビ、冷遇、理不尽な接し方という仕返しがまっているのは想像に難くない。つまり言えない。
なかなかすっとはできない。
で、インターネット。
先に書いたインタネットラヂオ、漢方おねおね放送局の中でなぜコントをするのだ、という話になった。昔からコントをしたかったのか、と。答えは別段である。多分私はラヂオをしたかった。で、どうやら、ラヂオするには、人気者にならんと無理なようで人気者になるには、ネタというやつをして人気を得るようだ、じゃ、なんだ、なんでもいいが、どうだ、ま、うううん。
別になんでも良かったのだ。人気者になってラヂオができたなら。ただ、試しにコントをしたら、たまたまうけたからコントをした。で、続ける。20年。
ところがだ、全然人気者にならんじゃないか。じぇんじぇん。ある時ある人間にこう言われた
「関本さんてストイックですよね」
あほか、ストイックちゃうわ。誰も相手にしてくれへんだけじゃ。かく言うお前も俺に一回でも
「関本さん、飲みに連れてってくださいよ」
なんか言うたことないやないか。
人気がない。ラヂオの仕事はこない。しかし、ま、時代のお陰で人気がなくてもラヂオはできる時代になった、インタネットラヂオだ。
でやっている。
だから、少しだけ満足だ。夢がかなったのだ。
とは言え、である。だが、である。しかし、である。
三木亮たらいう鼻の下ながい同い歳の男とインタネットラヂオの収録をする、夜7時ごろ、閉まっている場外馬券場の前で三木亮たらいう鼻の下ながい同い歳37歳の男、37歳の男二人場外馬券場の前でiPhoneのレコーディング機能を用い収録する。インタネットラヂオ。
俺はほんまにこんなことがしたかったのか。俺は場外馬券場の前でに座り込んで鼻の下の長いおっさんと喋り公開したかったのだろうか。
とは言え、ま、しみたれってはいるが、そこそこ楽しいから、続けているのだ。そこそこ、あくまで、そこそこ。
インターネットについて言いたかったのだが、自分のインターネットラヂオについておねおね書いた。インターネットについては、またいつか。
ま、こんなよれよれな文でもいいのである。少しすっとしたから。
昔禁煙セラピーを読んだ
昔、禁煙セラピーという本を読みました。それは、煙草をやめたいからです。煙草のあかんところは、身体に悪いし値段が高いところです。煙草のいいところは、ふううまいなあ、というところです。
けどまあ、うまいなあとなるが、肩は凝るし喉は痛いし値段は高いし、てのを凌駕するほどうまいかあ、となるとそこまでうまいようには思いません。秋吉の純系のほうがうまい。瓶ビールのほうがうまい。ここで、問題なのは瓶ビールと煙草の相性がいいところです。それはさて置き、おきた君の中身はおじさんで、おきた君はたまにしか洗わないのでわりと臭いと聞きました。おきたくんとは、おはよう朝日というテレビ番組にでていたうさぎのバケモノです。実際にうさぎのバケモノなら、生物学的番組になりますが、おはよう朝日は情報番組です。なぜなら、おきたくんはうさぎの着ぐるみで中身はおじさんで、その着ぐるみはそない洗わないので割と臭いという都市伝説があったのです。
それは、さて置き。おきた君は、以下略。
とどのつまりが、煙草を辞めたくて禁煙セラピーを読みました。で、要約すると、煙草のやめ方は我慢とありました。
その、我慢ができないから、本買って煙草やめようとしているのです。とどのつまり我慢なら、母親でもいえます。
ま、しかし、真理でしょうな。
いくら食べても太らないダイエットはないように。結局我慢である。ダイエットでいうと、こういう説もある。低炭水化物ダイエットの逆。まったく逆をする。米はいくら食ってともいい。米、野菜、みそ汁という食事をする。それを満腹。量はいくら食ってもいい。ならば、そこそこ痩せる。その方法を一旦理にかなっているものとする。なんか、そんな気がしないでもないから。粗食はいくらくってもいいと。
だけど、それも結局我慢である。脂っこいものや、甘いものが喰いたいではないか。焼肉に瓶ビール、そうなればおのずと煙草じゃないか、となるのだ。
なぜ、その炭水化物だらけダイエットをさもありなんと思ったかというと、昔、米とキムチだけの日々やら、食パンと塩の日々やら、うどんに醤油かけただけの日々をしてたら、痩せたからだ。あほほど喰ってたのにである。
麺ついて。そばの話。乾麺やなくて、一度茹でてるタイプのそば売ってますな。あれ、ひと玉30円ぐらいで。そればかり喰ってた頃。ある日、鍋でそばを湯がくのが、邪魔臭くなった。乾麺やなし。湯がかなくてもく喰えるんやないかと、そばを湯がかず蛇口からでる水道水でほぐして、蕎麦つゆにつけて、たべた。
食えた。そこまで悪くなかった。
3日後、急に胃が痛くなった。のたうちまわった。死ぬかと思った。死ななかったが。きっと胃が荒れたのだろう。
一袋30円くらいのあのそばは湯がけ。湯がくんだ、じゃないと胃が荒れる。
トレインスポッティング2を観ました
トレインスポッティング2を観てきました。トレインスポッティング2はどういう映画かというと、しみったれてるのがなんかええ、という映画でした。
トレインスポッティングについて書きます。2やなくて、20年前に公開されたトレインスポッティングの方。
トレインスポッティングが公開された時、周りのティーンは、なぜならその頃私もティーンだったから、おのずと周りの人間はティーンになり、おい、なんや、ティーンて、なにがティーンじゃ。10代だ。
周りの人間はすっかりおしゃれさんで、ミュージック映画てな感じのトレインスポッティングに感化される、おしゃれとなる。
だけど、私はおしゃれやなくて、どういう人間かというと、ラジオ深夜便を聴いてるような10代で、トレインスポッティングを観たあと思ったのは、かっこええけど、スコットランドのヤンキー映画やん、そら、確かに格好ええのであるが。
若いには特権があって、それを自覚してる人々、若さに華がありそれをいかんなく発揮する方達が苦手だった。なぜかというと、私は若さの華を発揮できずに、ラジオ深夜便聴いてる若者やったからである。
ようやっと、トレインスポッティング2の話。若さの特権てやつは、若さからくるものです。だから、人は言います。俺も若い頃はとか、若いうちはええけど歳とってそんなしてたらバカやで、と。
だけど、だけど、どうなんでしょ。言うてることはわかりますが、映画てのは嘘です。嘘の世界てのは、ヒーローが映えると同時に愚か者も映える。
愚か者たちが無い知恵絞って、でたとこ勝負。ええ歳してるからこそ愚か者に情がのる。ええ映画でありました。
映画の中である男が私小説というか、あの頃の小説を書きます。若い人は私小説をよく書きます。ま、それはそれでいいです。
だけど、どうせなら、決して成功者じゃないおっさんがあの頃を思う文章てのが、なんかよいではないでしょうか。
なんかよい、てのは実に説得力のない言葉ですが、明白によいより、なんかよいのほうが、なんかよいと思うのであります。
職業人たちの言葉
結局はそれを経験する、経験できないならそれをやっていたひとに話を聞くということやなかろうか、何事も。そうすることで思い上がりというやつは顔をひっこめてくれるのやなかろうか、と思うのです。
なんのことかというと労働のことです。
居酒屋のキャッチの仕事はどえらく大変だろうな、という話をたまにする。職業選択の自由というが、現実はゲームのように職業は選択できない。やりたいことよりも今金が稼げること、1時間でケツをわるようなことなく給金もらえるまでやれるかどうか、それが重要となる。1時間でケツをわったとして1時間分の時給、例えば俺もうこの仕事やめるか1時間働いた分の800円ちょうだい、といってもはいよとくれる人はいない。いないというか言いだせるかいな。
居酒屋のキャッチの仕事。
「お兄さん、居酒屋探してません」
といってくる。これはわかる。
「お兄さん、居酒屋ちゃいます」
と言ってくる。ちゃいます、とは関西弁。標準語でいうところの「ちがいますか」
「居酒屋ちゃいます」
と私にいわれても居酒屋に関係しているのはあなたである。私からしたら居酒屋はお前や、となる。雇い主は誰かはしらないが、私からしたら居酒屋はあなただと思うのだ。
「居酒屋ちゃいます」
と聞かれたら
「私は農家です」
と答える。
でも、その場合おっかしな人間となるのは私は農家ですと答えた人間となったりする。難しいところですね。
などと難癖をいう。しかしね、見ず知らずの人間に声をかけ続けるというのはそこにはフォームができてくる。
このキャッチとはいかなるものか、と思うのだ。いつか話をききたい。自分ではやりたくない。なぜなら知らない人に声をかけあまつさえ居酒屋まで連れていくという芸当は私にはできないし、ずっと立ってるのは腰が痛いし、である。
電気屋さんの売り子。通信関係の方々。これもつらそうだ。Wi-Fiの申し込みをする。売り子さんは説明をする。話を聞いていくとどうも売り文句とちがうぞ、という気分になってくる。それを指摘するとこういわれたのだ。
「通信てだいたいそんなもんですよ」
いや、そんなもんていわれても、その、なんというか
「この電車よくとまるね」
「各駅停車ってそんなもんですよ」
といわれればなにも異論はないのだが、通信の門外漢を相手に説明するときにその言葉はないだろう。だって、通信の世界は電車ほど当たり前のものだと思わないのだ私は。鉄道の歴史とインターネットの歴史、比べるまでもない。
うううううう、と難癖をいいたくなる。
説明を聞く。それを理解しようとするのとうなづくというのはどっか違うものだと思うのだ。私としてはうなづいて理解してますという意思表示はどっかにいって今そこにあるのはどういった内容か反芻することに全精力を注いでいるのだ。
うなづかないと私に説明者はうなづきを求めてくる。
業を煮やした説明者はこういった。
「お客さま、おわかり」
説明者は兄ちゃんである。兄ちゃんだ。おわかりというのはマダムのみに許された言葉ではなかろうか。マダムであってもなかなか客相手におわかりといは言わんだろう。なんだ、おわかりって。
しかしね、通信関係の売り子さんの仕事を一度でもしてみたら、彼の気持ちがわかるかもしれない。やったことのない人間の思い上がりなんだろう、それはきっと。
「一度お客さんの考え方をかえてみましょうか」
とも言われた。
なんでそこまで言われんとあかんねん。
僕らのミライへ逆回転
無知無知の無というイベントでブログを書くと宣言しました。
ブログを書きます。
僕らのミライへ逆回転という映画を観てよ、イベントで言いました。するとじゃ、その映画のよさを文章にしてよ、と言われたのです。
おい、な、100分くらい、何もいわず俺にだまされろよ、である。が、しかし、書くと言ったので書く。
僕らのミライへ逆回転という映画は本当にいい映画。本当に。それはもう、本当に。
あらくいうと、個人経営のレンタルビデオショップが閉店するという話。あ、わかりました、その手のしめっぽいやつね、と思われたら、少し違う。確かに少しはしめっぽい。ただ、100分通してその作品のベースラインはまぬけだったら、可愛げがあったり、くだらなかったり、茶化し倒したり。
でも、少しそこにはギャグ以外の何かもある。
それってなんだろうか。それはたぶん、おおげさにいうと人生だ。人生観。人生など様々でお前の思う人生観をぶちまけられても私は違うわ、すかたん、と言われればそれまでだ。
なんだけど、も少しだけ読んでほしい。説明するから。
映画。それはフィクションだ。ドキュメント映画もフィクションかと言われれば、フィクションです。それはやらせとかそういうことやなくて。カメラがある。フィルムがある。編集される。そこには意図が生じる。作為とでもいおうか。作為、それはフィクションです。こわっぱの断言。
フィクションは意図に向かう。意図に向かう時、へらへらは余分になるときがある。極端いうと、ジャッカルの日。あの映画はただただ目的に向かう。
コメディといわれるものは、へらへらが目的になる。へらへら。
私は今まで、いろいろなことがあった。その都度いろいろ考えた。ある意味では真剣に。でも毎日どっかふざけていて、なんというか真向目的に向かうてのは不健康だと思っている。へらへらしながらしんきくさいんだ、私は。
全編通してへらへらもしてないが、しんきくさい。もっというとしんくくさい自分でもなんとかなるのは、どっかでへらへらしてるからだ。
僕らのミライへ逆回転はそういう映画だ。
ありがたいことに芝居を書かせてもらうことがある。さらにありがたいことに、それを観て、おもしろいとかつまらないとか言ってくれる人。できたらつまらないは心でしまっておいてね。でもね、観劇してもらえる。だからこそのことだってことはわかってはいるのです。
私のような人間でも何かを結末らしきところまで書く、という行為には癖がです。で、まさに僕らのミライへ逆回転なのだ。シビアといえばシビアなんだが、どっかしらへらへらしている。そういうものばかり書いてきた。
おっかしな事をつくりださないと、疲弊するばかりだよ。
結局おまえの波長のあうから勧めてるのか、と問われればイエスアイドゥーだ。なぜ坂田利夫さんのギャグを差し込んだかはよくわからない。
今年も芝居を書かなければならないのだ。
独演会もしなければならないのだ。
誰からも注文はないとしても、しなければならないのだ。
なんだ、そのしなければならないってのは、というのはまた次回。