いんちきのもよう

コント師関本佳史 告知とかおねおねした文

僕らのミライへ逆回転

 

 無知無知の無というイベントでブログを書くと宣言しました。

 ブログを書きます。

 

 僕らのミライへ逆回転という映画を観てよ、イベントで言いました。するとじゃ、その映画のよさを文章にしてよ、と言われたのです。

 おい、な、100分くらい、何もいわず俺にだまされろよ、である。が、しかし、書くと言ったので書く。

 

 僕らのミライへ逆回転という映画は本当にいい映画。本当に。それはもう、本当に。

 あらくいうと、個人経営のレンタルビデオショップが閉店するという話。あ、わかりました、その手のしめっぽいやつね、と思われたら、少し違う。確かに少しはしめっぽい。ただ、100分通してその作品のベースラインはまぬけだったら、可愛げがあったり、くだらなかったり、茶化し倒したり。

 でも、少しそこにはギャグ以外の何かもある。

 

 それってなんだろうか。それはたぶん、おおげさにいうと人生だ。人生観。人生など様々でお前の思う人生観をぶちまけられても私は違うわ、すかたん、と言われればそれまでだ。

 なんだけど、も少しだけ読んでほしい。説明するから。

 

 映画。それはフィクションだ。ドキュメント映画もフィクションかと言われれば、フィクションです。それはやらせとかそういうことやなくて。カメラがある。フィルムがある。編集される。そこには意図が生じる。作為とでもいおうか。作為、それはフィクションです。こわっぱの断言。

 

 フィクションは意図に向かう。意図に向かう時、へらへらは余分になるときがある。極端いうと、ジャッカルの日。あの映画はただただ目的に向かう。

 コメディといわれるものは、へらへらが目的になる。へらへら。

 

 私は今まで、いろいろなことがあった。その都度いろいろ考えた。ある意味では真剣に。でも毎日どっかふざけていて、なんというか真向目的に向かうてのは不健康だと思っている。へらへらしながらしんきくさいんだ、私は。

 

 全編通してへらへらもしてないが、しんきくさい。もっというとしんくくさい自分でもなんとかなるのは、どっかでへらへらしてるからだ。

 

僕らのミライへ逆回転はそういう映画だ。

 

 

 

ありがたいことに芝居を書かせてもらうことがある。さらにありがたいことに、それを観て、おもしろいとかつまらないとか言ってくれる人。できたらつまらないは心でしまっておいてね。でもね、観劇してもらえる。だからこそのことだってことはわかってはいるのです。

 私のような人間でも何かを結末らしきところまで書く、という行為には癖がです。で、まさに僕らのミライへ逆回転なのだ。シビアといえばシビアなんだが、どっかしらへらへらしている。そういうものばかり書いてきた。

 おっかしな事をつくりださないと、疲弊するばかりだよ。

 

 結局おまえの波長のあうから勧めてるのか、と問われればイエスアイドゥーだ。なぜ坂田利夫さんのギャグを差し込んだかはよくわからない。

 

 今年も芝居を書かなければならないのだ。

 独演会もしなければならないのだ。

 誰からも注文はないとしても、しなければならないのだ。

 

 なんだ、そのしなければならないってのは、というのはまた次回。